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Issy no Hitorigoto ~ボクの土佐日記~

高知に移住してきて早16年目。高知の海のダイビングの水中写真を中心に、南国土佐の自然や日常、高知の暮らしなどなど、いろいろなことをつれづれに書いていきたいと思います~www

兄の逝去

ボクには2つ年上の兄がいました。

大変残念ながら、

今年12日、

55歳の若さで 永眠してゆきました。

 

今回は、自分の備忘録として
その兄の病気の記録を綴ってみます。

 

いつもの面白おかしいダイビングなどの記事とは異なりますので、
興味のない方は御覧にならないでください。
そして、とてもとても、長いです。

 

 

兄に異常が見つかったのは

昨年の4月半ばのことでした。

強い倦怠感が初めの訴えで、

近医を受診したところ、強い貧血と診断され

大病院での精密検査を勧められ、

すぐに直近の大学病院、日大医学部板橋病院を受診しました。

 

日大病院での精査の結果は、

すい臓がん 胃・腹膜浸潤。ほかに食道がんも見つかりました。
さらに受けた全身転移を見る検査(PET CT)では、
すでに全身に広範な骨転移、リンパ節転移が見られる、

というものでした。

 

すい臓がんは全てのがん種の中で、
もっとも予後の良くないものの一つです。

とにかく発見が遅いことが多いので、

見つかった時にはすでに手遅れ、というケースが多いのです。

 

兄の場合でも、見つかった時には原発巣(膵臓)から
すでに近辺の組織にがんは進展しており、

遠隔転移もたくさん見つかって、

とても手術で取る、ということはできない状態でした。

 

このころインターネットで情報を検索したところ、

手術不能膵がんの生命予後は、中央値で3か月、と書かれていました。

 

要するに余命3か月。(データ上ですが)

 

ボクと父は、

兄は最悪、5・6・7の3か月。
もしかすると、この夏まで持たないかもしれないのだと悟りました。

 

その後、セカンドオピニオンを

築地の日本がんセンター中央病院、有明のがん研究所で受けましたが

結果はほとんど同じことで、

がん研究所のサジェスチョンを受けて、

日大病院を拠点として、

すい臓がんに対する最強の化学療法とされる、

フォルフィリノックス、という抗がん剤の組み合わせ治療を受けることになりました。

 

フォルフィリノックスは手術不能の末期すい臓がんの予後を飛躍的に伸ばす

という実績のある化学療法で、

「飛躍的」とされるその実績というのは、

生存期間が約10か月延長する、ということでした。

 

兄に病魔が見つかったころは、
ちょうど、母がホスピスに転院して、

最後の時を待つような時期でした。

万が一兄が先に逝くようなことがあるといけないので、

母に兄の病気のことを告げるかどうか、

ボクたちはかなり悩みましたが、

結局、知らせることはないまま、母のほうが先に旅立っていきました。

 

 

兄に施されたフォルフィリノックスは、

はじめのうちは目を見張るような効果を示しました。

腫瘍の直径がほぼ半分になるぐらいの奏功を示したと聞いています。

 

しかしその効果も長く続くことはなく、

また、はじめは軽度にすんでいた、抗がん剤の副作用も、

回数を重ねるうちにどんどん辛いものとなっていき、

 

兄は強い痛みや激しい苦しみを訴えることが多くなっていったそうです。

 

はじめに頼った日大病院は、
ありていに言って、死を前にした患者に対しては

まったく親切でも、丁寧でもありませんでした。

フォルフィリノックスが効いていた時はともかく、

がんが再増悪を開始してからは

病状の説明は二転三転し、

納得のできない説明ばかりを受けていました。

 

セカンドラインの化学療法として

ジェムザール+アブラキサンも試してみましたが

副作用ばかり強くて効果はほとんどなく、これはすぐに中止になりました。

 

1124日、家内と上京した際には、
レンタカーを借りて父を連れて、日大病院に見舞いに行きました。

父と兄とは、約1時間程度、話をすることができました。

後で聞いたところによると、兄は、

「どうしてこんなに具合の悪い時に父を連れてくるんだ」
と言ってかなり立腹していたそうです。

実際次の日には体調もかなり崩してしまったようでした。

しかしボクたちとしては、おそらく、元気に話ができる機会は、
それが最後だという思いがあって、

無理に、兄には黙って、父を連れて行ったのでした。

兄はその時は立腹したかもしれませんが、

結果としては、ボクたちの読みの通りになりました。

 

日大では、疼痛のコントロールも

こちらからお願いしないと
満足にしてもらえないようなところでした。

挙句の果てには、IVH(中心静脈栄養)で命をつないでいる状態で、

(手の施しようがないので)そろそろ退院を考えましょうか、

と言われる始末でした。

 

日大に見切りをつけたボクたちは、

知人の医師から紹介を受け、

同じ板橋区内の帝京大学病院に転院しました。

 

こちらはとてもきれいな病院で、

高層階にある病室は見晴らしもよく、

個室であったこともあり、とても環境のいいところでした。

 

この時、病状はすでにかなり末期でしたが、

帝京大学の医師団は、

本人にやる気と元気があるなら、

サードラインとしてTS-1の経口療法を試してみる、

ということを言ってくれていました。

 

しかし、その抗がん剤治療を開始する前に

兄は肺炎を発症し、

この肺炎の軽癒を待つうちにがんはどんどん進行しているようでした。

 

兄嫁からは、毎日病状のご報告をいただいていましたが、

それは一日ごとによかったり悪くなったり、の繰り返しでしたが、

全体的にみると少しずつ、でも明らかに

後ろに向かって進んでいるものでした。

 

兄が2018年の年末を越えることができるかどうか、

正直わからないような状態でした。

 

2018-2019の年末年始に

ボクはムスメと二人で上京しました。

1230日、レンタカーを借りて、

オヤジを連れて、帝京大学病院にお見舞いに行きました。

 

そこにいたのは変わり果てた姿の兄でした。

ミイラのようにやつれ果てた姿で、

半白眼に、口を大きく開けて酸素吸入を受けながら、

麻薬によって意識のない状態で

眠っているだけの兄が、そこにはいました。

ボクは見ていられない思いで、

病室から出たり入ったり、反対側の談話スペースに逃げていたりしました。

ほぼ半日そんな姿を見守ったのち、

面会時間の終了も迫り、ボクらは辞去することにしました。

父たちが先に病室を出たあと、

ボクは最後に枕元に行って

子どものころのように

「おにいちゃん」と呼びかけてみました。

 

すると、それまで麻薬で昏々と眠っていたはずの兄は

大きく目を見開いて、ボクのことを認めました。

そして寝ていた身体を起こすようにして
ボクの手を握り締めてくれました。

力強い握手でした。

 

帰りかけていた父をすぐに呼び戻し、

会ってもらいました。

 

はっきりは聞き取れませんでしたが、

父が「来ていますよ。頑張ってよ」と言ったのに対して、

兄は「まだ だいじょうぶ」 と言ったように ボクには聞こえました。

 

 

ボクとムスメは、12日の朝1便で、自宅に帰ることにしていました。

状態は深刻なものの、この先いつまで持つのかわからない状態で
東京で待ち続けているわけにもいかないからです。

 

羽田空港に向かう空港バスの中で、

兄嫁から連絡が来ました。

 

「昨晩からの苦しみようが尋常ではないので、

鎮静剤の投与をお願いしようと思います。」

 

鎮静剤、というのは、

麻薬では抑えきれなくなったがんの痛みや

痛みとは異なる苦しみに対して、
緩和ケア医療の「最後の手段」として使われる薬剤です。

 

兄の苦しみに対して、医師団は何度も使用を検討してきていましたが、

最後に父やボクに会うまでは使わないでおこう、と、
使用を先延ばしにしてきた薬剤でした。

年末に、最後の面会も果たし、

本人の苦痛を取り除くために、
いよいよ鎮静剤の使用に踏み切ることになったのです。

 

鎮静剤 というのは、簡単に言うと、全身麻酔薬のことです。

全身麻酔にかけてしまえば、
意識はなくなりますが、痛みも、苦しみも、感じることはなくなります。

 

しかし、がんで全身状態が著しく低下している患者に

持続的に全身麻酔薬を投与するということは、間違いなく死期を早めます。

 

バスの中でムスメと二人でスマホで検索をかけまくったところ、

鎮静剤の投与から死亡に至るまでに時間は、

早いケースで数時間、長い方でも3日間程度、という結果でした。

 

ボクたちは羽田で搭乗予定の飛行機をキャンセルし、
家内にできるだけ早い便でこちらに来るように伝え、実家に戻りました。

 

鎮静剤の投与は12時過ぎから始まったようです。

ボクはレンタカーを用意して実家で待っていました。

「血圧の低下がみられるので、家族の方は病院へ来てください」

という連絡をいただいて、夕方、父を連れて帝京大学へ行きました。

運よく、最終の飛行機が1席だけとれた家内も、病院で落ち合うことができました。

 

こうして、兄は、12日 午後1041

ボクたちがそろっている前で、永眠いたしました。

享年55歳。

あまりにも若すぎる死でした。

 

 

兄嫁は、兄の命のある間は葬儀のことなどはとても考えられない、

と言っていましたので、

準備らしい準備は何もできていませんでした。

 

ボク自身、何軒か池袋近辺の葬儀社、葬儀手配社にあたってみてはいましたが、

これと言って決めかねていて

帝京大学病院に出入りの葬儀社にお任せすればいいか、と思っていました。

 

しかし、霊安室の管理をしているその葬儀社では、

通夜・葬儀を手配するとなると、

現状では年末から亡くなった人がたくさん立て込んでいて

特に火葬炉と式場がいっぱいであることから、

最短でも通夜・葬儀が9-10日になってしまう、というお話でした。

また、式場のパンフレットや説明用の資料等を見ても、

あまりきれいな式場ではなく、

果たして満足のできる葬儀があげられるのか、

非常に不安が強くなりました。

 

そこで、その葬儀社にお任せするかどうかは、一晩考えさせていただくことにして、

死亡診断書をその葬儀社にゆだねてしまわず持ち帰り、

深夜ではありましたが、片っ端から電話をして、

もう少しベターな葬儀社がないか、探すことにしました。

 

まずは疲れている兄嫁には申し訳なかったですが、

兄たちのマンションに行って、

遺体を安置する部屋を大急ぎで掃除して作りました。

長いこと病院に看病で詰めていたこともあり

マンションはごった返していましたが、

家内とムスメとボクとで、

兄のマンションの一室と、玄関と廊下をきれいにして、
遺体を迎え入れることができるようにしました。

 

片づけと並行して葬儀社にあたりまくった結果、わかったことは

東京の火葬場には、「上・中・並み」のような区分があって、

確かに一般の火葬炉は予約でいっぱいだったのですが、

差額を払うと使える火葬炉にはまだ空きがある、ということでした。

 

そこで葬儀社数社に対して、最短で行える通夜・葬儀の提案と見積もりを

明朝可能な限り早い時間にメールと電話でもらえるように頼みました。

 

翌朝、見積もりを出してくれた葬儀社の中に、
兄の住居からごく近い、セレモニーホールがありました。

 

兄は生前に自分で調べてみていた時に、「ここは少し高いなぁ」

と言っていたそうなのですが、

兄嫁の言では、それは、高いからよくない、という意味ではなく、

少し高いけどここがいいなぁ、という意味ではないか、というものでした。

 

そこは日程的にも 通夜・葬儀を5日(土)-6日(日)で行える、ということで、

もっとも最短の日程でできる、ということでした。

葬儀はそこでお任せすることにして、それ以後のすべてをゆだねることにしました。

 

兄の遺体をマンションに安置して、

 

葬儀社との詳細の打ち合わせを行い、

 

兄嫁の喪服を買いに行き、

 

その日(3日)は終わりました。

 

 

まったく読めなかったのは、
参列してくださる方の、人数。

親戚筋はボクから連絡して、ほぼ100%わかったものの、

 

会社関係と、
友人関係が、見当もつかない。

兄嫁は「もしたくさん来ちゃったら、200人とか300人とかになっちゃうかも」

って言ってたけど、
会社の取次ぎをしてくれた人も

「会社関係は30人ぐらいだと思います」(のちに50人に訂正)って言ってたし、

連絡を回す時間が限られていたこともあって、

現実的なところは、80人から多くて120人ぐらいかと読んで

会場を選択していました。

 

 

兄の葬儀は、
生前兄が携わっていた、「手回しオルガン」の音色の中で、
神式で執り行われました。

通夜だけで、参列していただいた方は200人を超え、
まさしく兄嫁の予測の通りになりました。

正月早々、また逝去からほとんど時間のない中、
本当にたくさんの方にご参列いただきました。

 

喪主としての兄嫁は、

素晴らしい態度でした。

 

事前の打ち合わせでは

何一つ自分では決めることができず、

だいじょうぶだろうか、という心配が強かったのですが、

 

彼女の行った、喪主のスピーチでは、

心を打たれなかった人は、いなかったと藻います。

感動しました。

 

 

ふたつ違いの年上の兄は、

弟にとっては、

いつも追いかけている、

遠い背中です。

 

長じてからは、

兄は音楽に、

音楽の才能ないボクはマリンスポーツに、

と、活動の場は離れていきましたが、

 

少なくとも幼いころから
中学校ぐらいまでのあいだ、

ボクはいつも、

兄のすることを、

一生懸命にまねながら育ってきました。

 

そして大人になってからも、

例えば親戚づきあいなどの席において、

ボクは次男だから、

地方にいて行かれないから、

という理由で、

兄の陰に隠れて、逃げてばかりいました。

 

 

その兄は、もう、いません。

 

何かがあっても、
頼ることも、相談することも できません。

 

 

兄の背中には、ついに、
触ることもできなかったな、

と、立派なお葬式を終えて、いま、思っています。

 

 

 

 

 

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  1. 2019/01/13(日) 13:40:00|
  2. その他
  3. | コメント:0

母の逝去④ 通夜・葬式

亡くなった母は

自宅に連れて帰って、

2晩、自宅のベッドで過ごしてもらいました。

 

あんなに帰りかがっていた自宅でしたので、

すこしだけでも過ごせてあげられてよかったと思っています。

 

ベッドの母は、本当に眠っているような、

やすらかな、きれいなお顔をしていました。

 

ステロイド治療でムーンフェイスになって、

浮腫が強く膨れ上がっていた

顔の輪郭や首回りが、

2週間にわたる点滴なしの療養と、

亡くなったことによる乾燥とが相まって

ずいぶんスマートに引き締まって、

すっかり元気なころのような、

とってもきれいなお顔になっていました。

 

 

お通夜とお葬式は

 

父の意向もあって、

仏教ではなく日本神道で行いました。

(親戚に聞かれると、父はボクのせいにしてたけどwww

 

はじめに打ち合わせをしていた実家の近所の葬儀場は

他の人が入っちゃってて、

隣駅の会場になったのは残念でしたが、

いい葬儀社ととてもいいスタッフの方に恵まれて、

たいへん和やかに、厳かに、

とてもいいお通夜とお葬式ができました。

 

神道では、

お通夜もお葬式も

すべて、個人はこれからお家の守り神になる、

という認識での「祭事」になりますので、

「通夜祭」 「葬場祭」 となって、

なんでもお祭りになっちゃうんですね。

 

このへん、辛気臭くなくってまことによろしい。

 

また神道のいいところは

仏教臭くないところ(あたりまえかw

戒名代とか余計なものがないところ

すがすがしくてシンプルなところ

などがありますが、

仏教だと聞いててもさっぱりわからない読経のところが、

そこそこ聞き取れる言葉で、

故人の来歴や人生を読み上げてくれるところ、

が個人的にはよかったですね。

 

お布施(玉串料)は思いのほかがっちりお支払いしましたけどwww

 

 

家族葬、ということにしましたので、

親戚と、数名の母の友人だけの式でしたが、

親戚も思いのほかたくさん来てくれて、

10数年?、へたしたら20年ぶりぐらいに会う

いとこたちもたくさん集まってくれて、

和気あいあいと笑い声の絶えない、いいお式になりました。




  1. 2018/06/30(土) 17:29:00|
  2. その他
  3. | コメント:0

母の逝去③

点滴を外されてから

母は予想以上に長いことがんばりました。

 

 

いつまでも仕事を休んでついているわけにもいかないので、

一度ボクたちは家のほうに帰り、

 

父には入れ替わりに息子を付けていおいてきました。

彼からは

・意識があってしゃべれる時間はだんだん短くなくなってきた

・それでも今日は入浴があった

・尿量が減ってきていて、丸一日の排尿量が昨日は60mL 、今日は100mLぐらいだった

などの報告を毎日入れてもらい、状況の把握に努めていました。

 

 

最悪、絶命の報告を聞いてから駆け付ける、

ということも十分に考えられた状況でしたが、

母はがんばってくれまして、

次の土曜日に面会に上京するまで、

持ってくれていました。

 

土曜日に面会した母は、

まだまだ元気そうに見えて、

ボクたちが来たことも明らかにわかりましたし、

少し返事も返してくれました。

 

この時は、

痛みも、最後のころの訴えていた背中の痒みも

全くなく、

とても楽そうに眠っていました。

 

 

 

翌日日曜日、

まだ様子が元気そうなら

もう一度自宅に家族は返すつもりで面会に行きました。

 

そうすると、この日は少し、

様子が違っていました。

 

 

口を開けた呼吸を、少し肩を動かしながらしています。

 

それでも母は、ボクたちが見舞いに来たことは認めていました。

目を開けることはなかったものの、

口元に微笑みを浮かべて、

ボクたちが来たことはわかっていました。

 

父と、ボクたち家族とで母を囲んで、

昔の楽しかった思い出話を

母に聞かせるように

少し大きな声でしていました。

 

 

しばらくすると、母の呼吸が、少しずつ、

間欠的になってきました。

 

 

一呼吸ごとの間に、

45秒ぐらい息が止まって、

呼吸の間隔が開いてくるのです。

 

これは前にもあったことなので、それほどシビアにはとらえていませんでしたが、

 

 

そのうちに、

15秒ぐらい、

長くとまっています。

 

 

「もしもし、お母さん、息が止まっていますよ~」

 

声をかけて肩を叩くと、

また息をし始めました。

 

 

そんなことを何回か繰り返したのち、

いよいよ呼吸停止時間が長くなってしまい、看護師を呼びに行きました。

 

「今がお別れの時ですね。

ベッドの柵を外しますから

皆さんおそばに寄り添ってあげてください。」

 

これがいわゆる、ご臨終のときでした。

 

 

病院に向かっていた兄の到着を待って

ドクターをお呼びして、死亡診断をしてもらいました。

 

1412分。

 

最後は、本当に安らかに、

ボクたちの目の前で、

 

文字通り、眠るように旅立っていった、

母でした。

 

 

点滴を外してから、丸2週間。

母はゆっくりと、枯れるような最期を迎えました。

 

最後はボクたち家族に囲まれながら、

これ以上はないと思えるぐらい、

最高の最後だったと思っています。

 

ボクたちも

そしてきっと母も

幸せでした。

 

 

ホスピスのスタッフの皆さんには

本当に感謝以外にありません。

 



  1. 2018/06/25(月) 00:00:00|
  2. その他
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母の逝去② しかしうちの母はがんばる

日曜日に医師からの手紙をもらって、

これはいよいよ危篤である。

 

持って数日、

長くとも週は越さない、と判断したけれど、

 

月曜日は仕事が外せず、

 

火曜日になって、家族を伴って上京しました。

 

入院・闘病中の兄を迎えに行き、

一時外出をとってレンタカーで運んで

久しぶりに会わせ、

最後の別れをしのびました。

 

ほとんど昏睡状態ではありますが、

時折目を開けて、反応することもあります。

 

「来ましたよ」

と声をかけると、

少しうれしそうに、小さくうなずいていました。

 

翌水曜日には呼吸が粗くなり、

間欠的になって息の止まる時間が長くなり、

数秒から長い時は数十秒呼吸が止まっています。

やはり状態は悪くなっているように見えました。

 

木曜日には呼吸時には口をすぼめるようになり、

肩をモゾモゾ動かす動作をするようになりました。

だんだん死期が近づいているのが見えるようでした。

これはいよいよだと、海外にいる弟も呼び寄せることにしました。

 

ところが金曜日には、

なんだか顔色もよくなって、

何となく、受け答えがはっきりしてきたように見えます。

 

あまつさえ、

間欠的に苦しそうだった呼吸も

穏やかに安定した呼吸に変わっています。

 

国外にいる弟にも連絡を取って呼び寄せ、

 

弟が到着した土曜日、

弟の、まだ小さい子ども(孫)を見ると、

笑顔まで浮かべました。

 

点滴を切って、

もう一週間。何たる生命力。

 

人は水を飲まないと3日で死ぬ

というのはうそですねー。

 

母は明らかに持ち直してきています。

 

点滴を止めているので

緩やかな下り坂でこのまま最後の時を迎えるのは間違いのないところですが、

少なくとも今の彼女は、

息子たちがそろって、たくさんの人に囲まれることで、

力が出て、一時的にせよ

状態が上向いてきています。

 

日曜日にはなんと、

少し口を開いて

まとまった会話をすることができました。

 

もちろん昏睡している時間が長いのですが、

「背中がかゆい」とか、

掻いてやると

「もっと上」 などと言います。

 

まだこんな意思の疎通ができるなんて。

 

点滴を止めて、もう一週間以上がたつんですぜ。

 

 

こうなると、いつまでも仕事に穴をあけているわけにもいかず、

かなり逡巡をしましたが、

火曜には一度、仕事に戻ることにしました。



  1. 2018/06/21(木) 00:00:00|
  2. その他
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母の逝去①

いよいよ母が危篤だという連絡が入り、

実家に戻ることしました。

 

母は、末期の肺がんで、

原発巣の肺の症状(胸の痛みとか咳とか)はそれほどでもないのですが、

骨転移が強く、

脊椎、腰椎、骨盤をはじめ、あちこちに転移があり、

高齢のため抗がん剤治療というわけにもいかず、

放射線療法は少しやってみましたがあまり効果もなく、

がんはあるけれど、

打つ手がないので、

ただ見ているだけ、という状態が続いていたところでした。

 

骨転移は特に骨盤がもっとも強く、

レントゲンを撮っても

ほとんど骨盤が映らないような状態で、

両脚の大腿骨に人工関節を入れている彼女は

下腿に体重をかけてしまうと

人工関節を止めているビスが

脆弱になっている骨盤を突き抜け

腹腔を突き破ってしまう(!)という恐れがあり

特に足には絶対に体重をかけられない、

寝たきりの生活が続いていました。

 

そんな状態の彼女では、受け入れてくれる病院が難しく

大学病院を出されてしまってからは

一次は近所の病院に転院してしばらく置いてもらいましたが、

急性期の患者を診る病院では

先行きのない患者をいつまでも置いておくことはできず、

療養型の病院の転院先を探し、

順番待ちをして、

ようやく「ホスピス」に入ることができました。

 

ホスピス、というのは、

終末期のがん患者を専門に看取る施設のことで、

緩和ケア、とかターミナルケア、などと呼ばれることもあります。

 

ホスピスでは、がんの治療はしません。

患者がいかに楽に過ごせるのか、ということだけに重点を置いて、

患者のケアをします。

要は、がん患者のがん性疼痛をいかにコントロールするか、

痛みを感じさせずに楽に過ごさせるか、ということを考え、

その中でがんが自然に進行していったら、

楽に最後も迎えられる、

そんな考え方による治療を中心に、

患者の最後の看取りを行う医療施設です。

 

そんな施設ですので、

入院時には

「延命治療は行わないことに同意します」

「心電図などのモニターも必要としません」

「必要な場合には鎮静処置(麻薬以外の強い鎮静剤の使用)をお願いします」

などの誓約書を書き、入院します。

 

そのホスピスの主治医から、

お手紙をいただきました。

いわく、

「この数日浮腫が強く、

経口でものを食べたり飲んだりすることもできなくなり、

回復不能な下り坂に差し掛かっていると思われます。

血管の確保が難しいこと、

水分補給はかえって浮腫を含めた全身状態を増悪させてしまうこと、

点滴を続けて仮に延命ができたしても

それはいたずらに患者の苦しみを引き延ばすことであること、

という理由から、

ブドウ糖と水分を入れている点滴を外そうと思います。

そうなると、緩やかに下り坂になっていって、

予後はあと日にち単位、ということも考えられます。」

 

要するに、母の余命は日にち単位でしか持たない。

来週までは持ちそうにない、

という意味だと読んで、

妻を連れて上京して母のもとに向かいました。

 

しかし、ホスピスというところは恐ろしいところです。

延命処置はしない、ということに同意はしましたが、

ボクらがイメージしていた

やらない延命処置、というのは、

たとえば、

経口摂取ができなくなっても

胃瘻(穴をあけてチューブで流動食を入れること)はつくらない、とか、

呼吸が止まっても人工呼吸器での呼吸の維持はしない、とか、

心臓が止まっても人工心肺での循環機能の維持は行わない、とか、

そんなことが「延命治療はしない」という意味だと思っていたのですが、

 

さにあらず。

 

口から物が食べられなくなってしまったら、

ブドウ糖の点滴も外してしまう、

というのです。

 

これはある種、衝撃的でした。

 

そんなことしたら、死んじゃうじゃん。

 

でも、そう

(ケースバイケースで人の状態によるとは思いますが)

最後口から食べられなくなったら

点滴はやめて、

枯れるように死なせていく、

これが、ホスピス、というところでした。

 

一般の医療とはあまりに違う考え方に

本当にびっくりしました。



  1. 2018/06/19(火) 00:00:00|
  2. その他
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プロフィール

issy1455

Author:issy1455
神奈川~千葉~パラオ(笑)~埼玉~と流れながれて、南国土佐に流れ着きました。
高知県は自然がいっぱいあって食べ物がおいしくて、ホントーに暮らしやすく、いいところです。
若いころから続けているスクーバダイビングを中心に、高知の自然やいいところを紹介していきたいと思います。

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